入江貝塚の概要

 

 

国指定史跡入江・高砂貝塚は、噴火湾(内浦湾)に面する洞爺湖町の、標高約20mの台地上に立地する、2つの地点からなる遺跡です。

入江貝塚は、縄文時代前期から後期に至る貝塚の形成と居住の痕跡が認められる遺跡です。貝塚の厚さは3mにも及び、貝層からは多くの土器のほか、狩猟用の石器や漁労用の骨角器が発見されています。

高砂貝塚は、縄文時代後期・晩期の貝塚を中心として、近世に至るまでの生活の痕跡が残る遺跡です。どちらの貝塚からも、その形成の担い手となった縄文人の埋葬人骨が発見されており、当時の生活や縄文人の形質を知ることができる貴重な遺跡として知られています。

入江貝塚は1988(昭和63)年に国指定史跡となり、1998(平成10)年に史跡入江貝塚公園としてオープンいたしました。高砂貝塚は2002(平成14)年に追加指定を受け、名称を「入江・高砂貝塚」と変えて保存されました。その後は、2003(平成15)年から長きにわたり整備検討委員会において活用に向けて検討を重ね、2015(平成27)年度から2020(令和2)年度)の6か年にわたり国庫補助事業にて整備を進めてまいりました。 

 

入江貝塚・高砂貝塚 「遺跡の位置」

入江貝塚と高砂貝塚は、板谷川と赤川に挟まれた標高10~20mの台地上に位置しています。遺跡からは内浦湾(噴火湾)や有珠山を一望できます。

今からおよそ7,000年前の最も温暖な時期には、遺跡のすぐそばまで海が入りこんでいたと考えられますが、縄文人が定住生活を営んだのは、貝塚がつくられた縄文時代前期の終わりごろのことです。

 

遺跡の発見と発掘調査

入江貝塚は、縄文時代前期から後期にかけてつくられた竪穴建物跡や貝塚、お墓から構成され、高砂貝塚は縄文時代後期から晩期の貝塚やお墓が見つかっています。これまで発掘調査をしたのはほんの一部で、遺構・遺物のほとんどが現在も土中に保存されています。

入江貝塚 「遺跡の概要」

これまでに調査された貝塚は、A~Cのアルファベットをつけて呼ばれています。このほか、竪穴建物が使われなくなった後のくぼみにつくられた小貝塚がみられます。

入江貝塚で見つかった竪穴建物跡は、これまで27ヵ所で見つかっています(下図の茶色の〇で示した箇所)。これまでの調査からは、山側に古い時期のものが多く、後期に入ると台地の海側を主に利用していたことがわかります。 


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A地点貝塚

1954(昭和29)年にはA地点貝塚の部分調査が行われました。貝塚は縄文時代前期から後期(約5,000~約4,000年前)につくられたもので、当時調査した名取武光・峰山巌は、出土した動物遺存体が魚類を中心としていること、狩猟用の石器や獲物を処理するための石器が極めて乏しいのに対して、漁労用の骨角器が豊富に出土し、作りも入念であることから、入江貝塚を残した縄文人の生活が漁労中心だったことを指摘しています。

1988(昭和63)年には、下水道管埋設工事に伴うA地点貝塚の緊急発掘調査が行われました。

この調査によって貝層が4m以上にも及ぶことが確認されました。また遺物では、縄文後期前葉に位置づけられる手稲砂山式や入江式を主体とする土器が出土し、その他石器・骨角器も豊富に出土しました。 


入江貝塚A地点の断面(1954) 

 

B地点貝塚

B地点貝塚は、台地の平坦部に作られています。1983~85(昭和58~60)年に行われた分布調査では後期初頭の土器が出土しており、他の貝塚と比べると形成期間は短いことがわかります。  

 

C地点貝塚

1966年及び67年(昭和41・42年)には、虻田町(当時)教育委員会を主体として、札幌医科大学解剖学教室と北海道高等学校郷土教育研究会を中心に、C地点貝塚の発掘調査が行われました。

当時検出された遺構は、墓坑15基、石組炉3基、焼土、柱穴で、遺物は、27,671点が出土しています。 


入江貝塚C地点の貝層断面

 


入江式土器(後期) 


円筒上層式(中期)  


円筒下層式(前期)

 

動物遺存体では、上層(Ⅳ層貝層)から、魚類でニシン・ヒラメ・マグロ、鳥類でオオミズナギドリ・オオハム・ハクチョウ・ウミウ・ヒメウ・ウミガラス・ワシ類、哺乳類ではエゾシカ・イヌ・オットセイ・トド・カマイルカなどが出土しています。

下層では、スズキ・ボラ・マダイなど、暖流系の魚類の骨が見つかっています。  

 

入江貝塚から発見されたお墓

C地点貝塚の調査では、縄文時代前期末(約5,000年前)の人骨が4体、中期のものが4体、後期初頭(約4,000年前)のものが7体の、計15体分の人骨が発見され、貝塚が埋葬の場として使われていたことが明らかとなりました。

お墓は、埋葬用の土坑が認められず、そのほとんどが前期後半から後期初頭を通して屈葬で葬られています。このうち11号墓(縄文前期)では、骨の上下に土器を置き、黄色粘土で覆われていました。


11号人骨(前期)

 


縄文土器の出土状況(前期)

 

また、中期から後期にかけては墓坑の周囲に拳大の川原石を配したり(7・14号)、土器や石器を副葬品としてお墓に納めるなどの例(9・14号)が見られます。


7号人骨(中期)

 

9号人骨(縄文後期)は、座葬に近い屈葬で、人骨を詳しく調べてみると頭や体幹の骨は通常の大人と変わりませんが、四肢骨(手足の骨)が異常に細く、「筋萎縮症」を患っていたことがわかりました。

 
筋萎縮症を患った9号人骨(後期)

  

 

竪穴建物跡

入江貝塚から発見された竪穴建物跡は、これまで27軒が確認されています。時期別にみると、縄文時代前期後半が4軒、中期前半が18軒、中期後半が2軒、後期前葉のものが3軒です。

1983年から1985年に行われた分布調査の結果からは、各時期にわたって切り合うような形で検出されていることから、史跡指定範囲全体に広がる様子がわかります。


竪穴建物跡の調査(1993年)

 

これらは調査範囲が限られたもので、住居跡1軒分を発掘できた例は少なく、まだ大部分は地下に保存された状態です。


入江式土器の出土状況(1993年)

 

平面形は、前期~中期の竪穴建物跡は楕円形や長円形を呈し、後期で円形となります。また、建てられた場所は、前期~中期にかけては台地の山側に多く、後期では台地の縁辺(海側)に多くつくられるようになります。

写真は、縄文時代後期(約4,000年前)につくられたもので、柱穴の多さや炉の位置から、同じ場所で少なくとも3回は建て替えられたと考えられています。  


竪穴建物跡の調査(1993年)